第29話 加茂の浦 T   平成26年04月04日  

加茂の湊は酒井藩士たちにとって、特別の意味を持つ。釣を趣味とした武士たちにとって、ここが起点となっていたからである。心身の鍛錬と称し鶴岡城より、山越えのおよそ3里に及ぶこの道を朝夕、時には夜道を駆け抜けた。
 加茂の湊は、その平安以前から、嵐を避けるのに適した天然の良港として知られていた。酒井氏が入部した江戸時代の初期の加茂は隧道もなく鶴岡・大山から加茂に出る為に、急峻な峠越えをしなければならなかったと云う。加茂の浦に大泉(平安の頃より大泉の庄と呼ばれ、現在の鶴岡の事。荘内を豊臣秀吉に最上義光が賜った時に名づけられたもの。之には逸話があり、酒田湊に大亀が上がった時、大層めでたいと大いに喜び酒田の城を亀ヶ崎と名付け、大泉を鶴岡と名付けたと云う)宛ての荷物が届くと加茂の浦に多くの人足達が待機しており、荷を担いで峠を越えて大山まで運んだと云う。安政(18541859)の頃になって真言宗の鉄門海上人(後に生きながら地下で経を唱え、少しづつ五穀を絶ち、生き仏=ミイラとなった人物=庄内の真言宗に見られる即身仏の思想)によって上池から登った所に隧道が開削された加茂坂街道により、随分楽な近道が出来た。その後明治に至り土木県令と云われた三島通庸が新たに二代目の隧道を開削し、加茂と鶴岡の距離が更に縮まった。現在使われているトンネルは三代目となる。一方酒田湊(最上川河口)に着いた荷は、川船に積み替えられ河口の最上川から当時支流のひとつであった赤川を川船で遡り鶴岡の城下に運ばれた。
 その昔加茂は顔の浦と云われた時代がある。顔の浦から何時加茂に転化して行ったのか、京都の地名である加茂が京文化の伝播の流れと共に、加茂と云う名前が日本海を北上(日本海沿岸の各地に同名が見られる)し来て、何時しか加茂に代わった物かは甚だ不明である。それでも鎌倉時代後期の延慶3年(1310)藤原長清によって編纂された夫木和歌抄に「君見ねば かほのみなとに うちはへて 恋しき波の たたぬ日ぞなし」とあり、その中の「かほのみなと」が現在の加茂港をさしているのだと云う。かほは顔と読める事から、この当時「顔の港」として呼ばれていた事はほゞ間違いないようだ。